多くの日本人は、「同調圧力」というものに圧迫され続けています。
同調圧力は、集団の中において、多数のほうがより偉く、価値があるものだと、強制させられるもの。
たとえば、
- みんな学校に行っているから
- 高校を卒業したら大学に行くのが当たり前だから
- 就活をするのは当然のことだから
- 女性は結婚して子供を産むのが普通だから
…などといった、色々な当たり前がありますよね。
私は、こういう「当たり前」に長いあいだ苦しみ続けてきました。
けれど、結局のところ、そう思い込んでいたのは自分自身だったのかな、と今では思っています。
同調圧力の多い日本
同調圧力は、日本特有です。
日本では、協調性というものがとても重視されていて、少しでも多数の意見と違うことを言えば、叩かれる対象となったりします。
「集団の調和を乱さないように」ということが美徳とされているからなんですよね。
だから、世間一般でいう、学校行って、就活して、働いて、結婚して、子供産んで、家買って、車持って…みたいな流れが、ごくごく普通として行われてます。
他にも、女は家事、男は仕事とか、結婚したら財布を一緒にするとか、みんなが当たり前のように「そうしている」というものはたくさんありますよね。
そして、この「輪」から外れている人は、ちょっとどうなの、みたいな風潮が出てきます。
みんなの当たり前から外れちゃった人
私は学校に通っているときから、こういう同調圧力がとても苦手でした。
特に義務教育の中では、学校に行って、学びたくない教科も学ばされて、運動会やイベントごと、ましてや修学旅行なんかにも行かされて、強制的になにかやらされるのがとても苦痛でした。
「なぜ自分はみんなと同じようにできないのか」って、悩みまくりました。
気がつくと、みんなが行く方向とわざと逆の方へ進むようになり、大人になってもそういう感じ。むしろどんどんこじらせていくように…。
自由は自分で選ぶことが出来る!
大人になってから自己探求を数年間続けて、久々に子供のときみたいな自由を感じています。
それはなぜかというと…
人生のほとんどが、自分自身で選ぶことができるから、と気づいたからです。
確かに、義務教育などの子供時代のうちは難しいと思います。
けれども成人していくと、ある程度は自由なんです。
同調圧力は、「周りがこうだから…」っていう一種の暗示みたいなものですが、でもそれをよくよく考えてみると、
「そうするべきである」とは言っても、そうするかどうか選ぶ選択肢は自分自身にあるのです。
人生においての究極はここなんです。選択肢が自分にある、ということ。
同調圧力、世間での「アタリマエ」といったものは、社会的な、言ってしまえば洗脳のようなものでもある。
けれども、洗脳は解くことも可能なんです。
自分自身を味方につける
同調圧力から逃れることって、すごく不安なことなんです。
実際に世間のみなさんと違うことをすると、すぐに叩かれたりもします。実際の生活では、人間関係が困難になったり、生きづらさを感じるようなことになるかもしれません。
こう書くと、「ほら、やっぱり無理なんじゃん。みんなから外れるなんて。」って思ってしまうのも無理ないです。
人と違うことが、いけないこと、悪いことなんだな、と考えてしまいますから。
でも、私はあるとき、「もうみんなと同じ道を歩むのはやめよう」と腹をくくってみたんです。
そうしたら、目の前がパッと明るくなりました。
不安がなかったって言えばウソにはなりますが、周りがなんと言おうと、「自分だけは味方でいるからね」と自分自身にこころの中で言ってみたんですよね。
自分を味方につける、という方法です。
周りが敵だらけになったとしても、自分だけは味方でいてくれる。とても安心できました。
自分でかけていた暗示を解き、本当の意味での自由になる
さらに言うと、その後は思ったより敵はいませんでした。
というか、ほぼほぼ自分の中で勝手に「敵」を作り上げていたのかも、と思います。
例えば、「こんなことをしたら、身内から笑われるんだろうな」みたいな感じです。
しかし実際は笑われませんでしたし、逆に「いいじゃないの~」って言ってもらえました。
自分で「こうじゃなきゃ生きていけない」って思っていた、ということです。
自分で自分自身をガチガチに固めてしまって、周りを敵だらけと思い込んで、疑心暗鬼になって…
それは、自分で作り上げた幻想でした。
「絶対にこうでなければならない」というものの「絶対」っていうのは、実はあり得ないことなんです。
それは自分でそう思い込んでいるものであって、だからこそ、「周りが私にこうさせてくる!」みたいなイライラや不満もつのってきたりします。
そういう思いを手放し、自分自身を味方につけ、ちょっとした勇気を持って踏み出す。
これで、恐ろしいほどの自由が手に入ります。
いつも、「どうして周りってああなんだろう!」とウンザリして、不満ばかりの私でしたが、心の自由を得てからは、そんなふうに感じることがほとんどなくなりました。
今は、「周りはこうだけど、自分はこう」という軸がしっかりと立っていて、すごく自由を感じます。
その反面、「責任」というものも強く感じるようになったのはウソではありませんが、それもある意味で、「自由」ということなのです。

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